さて今月の妙乃見山はこちらです。
精神(こころ)の荒廃
新實信導
近年の豪雨は、河川の氾濫による浸水や山の崩落による道路や鉄道の寸断をおこす。その被害は甚大である。雨が降ると大雨にならないか気が気ではない。自然災害は自分で回避したくてもが自然相手ではいつ襲ってくるか分からない。
また、私たちの生活とって不可欠な自動車も交通氾濫がおこり、各地で渋滞がおこっている。とくに交通事故の発生件数は平成十五年の95万件をピークに、令和5年では30万件と減少したが、なくなったわけではない。自分がどんなに気をつけてみても、相手があるだけに避けようのない災難が襲う可能性がある。
さらに近頃はSNS等の普及により世の中は情報が氾濫し、私たちは情報に踊らされ心身を消耗し、ややもすると消費生活に追いまくられ、心に余裕がなくなっているように思える。
私たちはこの社会のゆがみや利己主義的な風潮に気づくこうとしない。たとえ気づいたとしても、社会が悪いからだと、その罪を社会のせいにし政治家はなにをしているのかと、他をののしることしか考えない。
私論ではあるが、こうした政治の貧困が災害をまねき、やがて精神の荒廃がすすみ、ますます住みにくい世の中となっていく。そうした世相の中で育ったもので構成しているのが現代の社会であるのかも知れないということであろうか。
日蓮大聖人は『諸経与法(しよきようとほけきようとなんいのこと)華経難易事』に、
「仏法ようやく顛倒(てんどう)しければ世間もまた濁乱(じよくらん)せり。仏法は体のごとし世間はかげのごとし体曲れば影なゝめなり」と教示されている。
真実の仏法が損なわれれば、人の心も乱れ世の中も濁ってしまう。仏法は体で世間はそれを映し出す影である。体である仏法が正しく理解されなければ、影である世間も傾くのである。
社会が悪いと思う前に、己の心が荒廃していないかどうか自身に問い尋ねることが大事だといえよう。一人でも多くの人が正法である法華経を信じ保つことができればこの社会を救う近道ではなかろうか。